日本のことわざに「好きこそものの上手なれ」という言葉があります。
意味は、好きなものほど、上手にできるようになる、という文字通りの意味です。
一般的に、この言葉は、多くのことに関して言えるものですね。例えば、ゲーム、趣味、休日のレジャー、部活、読書、映画鑑賞…、多くの人が「好き」だと思ったことをきっかけに、アクションを起こします。
「好き」だと思えなければ、そのことを続けることは困難です。
一方で、勉強になると多くの人はなかなか「好きだ」とは思えないでしょう。
中には、全く勉強が好きとは思えない、という方もいるかもしれません。
ちなみに、私は生物や日本史、政治・経済、数学Bの一分野などは好きですが、反面、古典や音楽などの教科に対し若干ながらの苦手意識を持っています(授業放棄するほど嫌いというわけではない)。
しかし、多くの人は嫌いな勉強は、一方で「重要だ」とも思っているはずです。
勉強をすることが周囲の大人から学生の仕事のように普段から言われているからかもしれません。また勉強は、一種の「イニシエーション」(通過儀礼)、つまり大人になるために誰もが苦労し努力するものとなっているからかもしれません。
大学受験にしろ、中学・高校受験にしろ、そこに必要性を私たちが感じる理由は、やはり勉強が世の中の何らかの「指標」になっているということにあるでしょう。
どうして勉強する必要があるんだろう?
そもそも、なぜ勉強をするか考えたことはあるでしょうか。
資格が必要だから?
いい大学に行きたいから?
周りに合わせたいから?
確かに、これらはどれも重要ですが、いずれも「通過点」にしかすぎず、多くの場合、その根本が理解されることはありません。
そもそも理解しようとしない人が大半のはずです。なぜいい大学に行きたいか、なぜ資格を欲しているのか。
きっとそれは、社会で立ちまわっていくことにあるのではないかと私は考えています。
いい大学に入る「指標」としての勉強は、たしかに「知識が多い」とか「頭の回転がはやい」といった意味で、その人の成績の良さを示すものではないと私は考えます。
いい大学に入学した人は、多くの場合、それまでに努力をしてきた人間として扱われます。
つまり「努力をちゃんとする人」という指標として、勉強を捉え直してみてはどうかと私は思います。
そのために、日本で最も成績のいい。また、入るのが難しいといわれている東京大学の学生は、毎年毎年有名企業や中央省庁へと就職できるのだと思います。
対して、何も勉強せず、努力もしなかった人間にはそれなりの未来が待っているはずです。
私はそういった人生を非難したりはしませんが、やはり努力をしてこなかった人間が、努力をした人間に対して、あれやこれやと批判するのは筋が違うと思うのです。
「アリとキリギリス」という話はあまりにも有名ですが、やはり、社会というコミュニティにいる以上、それ相応の努力をしなければ、しっぺ返しが来るのはやはり自分に、だと思います。
「努力する勉強」のまえに「勉強を好きになる努力」を!
さて、本題にはなります。
やはり、勉強が嫌いな人は多いはずです。
私の周りにも(有名な自称・進学校に通っているのですが)、勉強することが嫌いな人は一定数居ます。
勉強したくない彼・彼女らにとって、勉強は拷問とも思えるものであります。
しかし、なぜ彼らが勉強したくないかといえば、勉強する理由に対しての努力が見合わない、と感じているから。
つまりは、努力する価値を感じるほど「おもしろい」と思えていないから勉強をすることが苦痛なのです。
では、逆に勉強を「好き」になってしまえばいい。
最初に言った通り、本来好きであるはずの部活、ゲーム、趣味に対しては、多くの人がそれに対して長く没頭していられるでしょう。
では、その趣味などに勉強を入れてみればいかがでしょうか?
結果が出ない? 成績が上がらない?
それは私も一緒です。
ただ、苦労をせずにのんびり生きるよりも、ある程度の勉強をして努力を重ねて過ごすことは、同時に社会で生き抜くための知識や教養を身に着けることにもなります。
この社会には、搾取するものと搾取されるものがいます。
区別され、上に立つものと下に見られるものがいる。
それは社会の純然たる事実で、ひっくり返すことはほとんど困難です。
つまり、努力を「努力」と感じて、何か嫌なことを我慢すること、と捉えるのではなく、どうすればその努力を「努力」ではなくなるか、「好きなこと」、「楽しいこと」にしていくかというところを工夫してみる、ということが大事だと思います。
その工夫の結果、その社会で生きていく力も達成される、未来を変えられる「楽しみ」が勉強にはあるのではないか、私は考えています。
次回は、ではどうすれば勉強が楽しくなるのか、その工夫の仕方について書いてみたいと思います。