こんにちは、ももです。
人間というのは自分と誰かを比べたがる生き物なんだとつくづく思う。
だから、少しでも周りと違ったり、ずれていたりすると偏見や差別などが生まれてしまう。
いじめが起こる原因はいろいろあると思うが、「周りと違う」ということから始まるいじめが多いと感じる。
どの限度から「いじめ」と言うのかはっきりわからない。
でも小中高といても、また最近のニュースをみていても先生同士でも、職場でも、つまり大人の社会でも多かれ少なかれいじめはあるようだ。
ささいなことでも「周りとの違い」が生まれると、いいようにも悪いようにもなんらかの感情が私たちに生まれる。
時にはその「周りとの違い」から偏見が生まれ、それがヒートアップしていけば、差別やいじめになっていく。
国とか民族とのスケールになれば、戦争や紛争、ということになるのかもしれない。
ここでいう「周り」とはどういう人達のことをいうのか。
それは、自分が嫌われないように、気を使って合わせて生きてきた人達のことだと思う。
嫌われるのがいやだからという意識がなくても、空気を読んだり、なんとなくノリで合わせるという人も少なくない。
人間そんなものだと思う。
周囲の人に嫌われることは、やっぱりいやだ。
そのため、場の空気を読めることはスムーズに生きていく上で必要な能力だと感じる。
逆に空気を読まずにズバズバと自分だけの道を進みすぎると「KY」(空気読めない人)だと言われてしまう。
そのいわゆる「KY」にあたる人を排除して、
「自分はあの人とは違う」「あの人よりも上だ」と私たちは思いたいのかもしれない。
どのクラスにも少し気の強い番長的な存在がいるのは、学生あるあるだと勝手に思っている。
しかし、その番長が、誰かしらをいじめのターゲットとし始めるとする。
するとその番長といつも一緒にいる友達も空気を読んで一緒に嫌がらせをするようになる。
クラスメイトもいじめや嫌がらせにきづきながら、空気を読んできづいていないふりをする人が少なくない。
日常的に空気を読むことができている人間はこういった場面でも空気を読んでしまう。
見て見ぬ振りをするのはいけないとわかっているし、できればいやな思いをしている友達を助けたい。
しかし、ここで空気を読まなければ、次は自分が嫌われたり、嫌がらせをうけるかもしれない。
自分が「いじめはよくない」と言い出したところで「冗談やし、間に受けんなよ〜」とか「なにヒーローぶってるん」など、自分のトーンが違ったような返事がかえってくるリスクがあるのでものすごい勇気がいる。
もしかしたら嫌がらせを受けていると思っていた友達が実は「いじられキャラ」なだけかもしれない。
本人も「いじられ」ているだけだとしかおもっていなければ、確かにいじめとは言い難い。
実は普通の友達同士の会話のなかでも、「いじられている」という役割は誰しも回ってくることだろう。
深刻に受け止めなければ、そこに「いじめ」とは言えない空気が確かにある。
では、どのラインから「いじめ」と言えばいいのか。
私が考えるのは1つ、「自分/相手が嫌がっていること」だ。
単にいじられキャラの友達とじゃれあっているだけだという感覚でも、自分や相手がそれを不快におもっていたらやはり考え直す必要があると思う。
でも、そうなると、今度は「いつ私の言動が相手を不快にしてしまっているんだろう」という、空気の圧力を感じるようになる。
常に自分の言動に注意して、恐る恐る人と付き合うことになるんだろうか。
そんな人間関係を、友達と言えるのだろうか……
(近日、再編集して追記・編集します!☆) 2020年2月2日