マイノリティをマイノリティにしない:LGBTH

LGBT_わかこく

目次

高校1年のモモです。

今回は、個人的な LGBT(LGBTQ) という言葉についての思いを書いてみたいと思います。

マイノリティとしてLGBT(Q)

マイノリティを名指せば名指すほど、人の間に距離が生まれるのはなぜ?

LGBT(LGBTQ)呼ばれる人々は、性的マイノリティと言われている。

でもこのマイノリティという言葉のせいで、異性愛者が多数(マジョリティ)だといわれてしまうと、かえって少数の人達が目立ってしまう。

そのせいか、言い方が少し悪いかもしれないが、この4つの頭文字の中に自分は入っていなくてホッとするなんて人も今の時代ならたくさんいるだろう。

幼い頃の自分はそうだった。多数派でいることによって仲間がいるかのようにおもっていたのだろう…

でもそれは、右利きの人と左利きの人がいる中で、自分がマイノリティの左利きのグループに入っていなくて喜んでいるのと同じようなものな気がする。

確かに左利きの人には左利きならではの悩みがあるかもしれない。

だが、左利きだからといって差別されたりすることはない。

しかし、LGBTと呼ばれる人達はそうはいかない。

差別を受けたり、周りにうちあけられず、苦しんできた人がたくさんいると思う。

誰かに打ち明けたくても自分から人が離れていくリスクを考えてしまい、なかなか言い出せないかもしれない。

自分が多数の周りの人間と少し違う気がしているが、それが何かもわからなくて、モヤモヤしている人もたくさんいるだろう。

薄々、自分はLGBTQと呼ばれる人達とどこか共感しあえる部分があると気付きつつも、認めたくないという人も、もしかしたらいるかもしれない。

ではなぜそう思ってしまうのか。

それは、多分世の中のせいだと思う。

近年、世界では同性愛者の偏見や差別をなくすためにいろいろな政策がとられてきたが、現在もそれが完全になくなったとはいえないだろう。

テレビではよく見る同性愛者が、自分の身近にたくさんいるということに、世の中がまだまだ慣れていない気がする。

そのときに、異性愛者の数の方が多いが同性愛者も受け入れてあげるというような上から目線な感じすらもする。

受け入れる…違うそうではない。

受け入れると言うとなんだか受け入れてあげた感じがでてしまう。

人間には右利きの人がいれば、左利きの人もいる。

もしくは両方利き手の人や、お箸を持つのは左で、鉛筆を持つのは右という人もいるかもしれない。世界にはほんとうに多様な人がいる。

だから人間そうを簡単には分類できないはずだ。ほんとうに十人十色という言葉の通りだと思う。

でもそれをわざわざ言葉にしてしまおうとした途端、くっきりと人と人との間に線が引かれてしまいそうになる。

本当に私たちは多様性を認めてる?

最近、小学校や中学校の義務教育の中で障害者への配慮や多様な性について学ぶ機会がある。

それらのことを学習するたびに知識をつけていた。と、私は思っていたのだが…


最近私の友達から、「私は男の人も、女の人もどっちでも恋愛対象になる。」と打ち明けられた。

いや、打ち明けられたというよりは話の流れでさらっと発した言葉だった。

その時、私は驚いて言葉を詰まらせてしまった。そんなに驚くことではないのに…

授業ではいろいろな人がいることを学んで、自分なりに知識をつけていったつもりだった。

しかし、私は実際にそういった人が身近にいる慣れていなかった。

驚いてしまった自分に少し腹が立ったし、こんな風に驚いてしまうようでは、同性愛者だけでなく、たくさんの人が身近にいることに慣れていないと感じた。

だから少しでもLGBTと呼ばれる人々が一般化されて馴染めるように少し考えてみた。


あくまで個人的な意見だが、世界に多くいると言われる異性愛者(heterosexual)のHをLGBTの頭文字の中に入れてLGBTHと呼べばいいと思う。

すると世界には、たくさんの人がいることを強調できる。

異性愛者が自分を含まない人々のことを「LGBTの人」と呼ぶから、そんなつもりはなくてもどこかで偏見が生まれてしまうのかもしれない…

だからこそ異性愛者達が自分もいろんな人間のうちの1人であることを自覚する必要がある。

そしていつか、「すべての人々が自分らしく生きられる社会」を実現するために、どんな小さなことからでも始めていくの大切だと思う。

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