はじめての投稿になります、関東在住で、現在はひきこもりのさとなか(ペンネーム)です。
俺は大学生の頃から、だんだん学校にいけなくなった。
親にも相談できず下宿先で数年過ごした。
実家に連れ戻されてからもう7年ほど、ひきこもり生活をしている。
もともとTwitterでわかこくのある方と交流をしていて、いろいろと相談にのってもらってきた。
まったくただの友達のように接してもらっていた。
もう1年くらいになる。
今は、はじめてこのライティング、という取り組みをして人生初めての収入を自分でもらっている。
正直、このわかこくはすごい取り組みをしてると思っている。
良い温度だと思っている。
自分はまだ心の浮き沈みがあったり自己肯定感も何もない状況で、何も偉そうに書けることはない。
ただ、だらだら生きるにしても死んでしまうにしても、そのプロセスを日記にして、はじめは自分のために言葉にすることをしていった。公開するなんて、考えたこともない。
その日記のおかげか、そのままライティングをしてみようと一週間くらい、パソコンで今回の文書を付け足して書いてきた。
ひきこもりは問題ではない

わかこくの人からある時期からすすめられたことは、動画を見ることだった。
youtubeで毎日、1本くらいのペースでこれを見てほしいと。
いろいろなyoutuberの動画をみてきた。
そんななかで、manablogを書いている、元ひきこもりのまなぶさんの動画をみた。
この人の動画はいろいろ勉強になった。
彼が言っている内容はいろいろなヒントになった。
それまで両親の描いている理想や社会の価値観にとらわれてきた。
大学に入ること、大学生活を陽キャで過ごし、卒業すれば大手サラリーマンになるまでとにかく「我慢することは当たり前だ」、と俺を攻めてきた両親。
でも、高校まで両親が莫大なお金を投入して進学塾に通った俺が入った大学は、Fランだった。
希望していた関関同立の受験に失敗した。
俺は大学入学後、両親に合わせる顔がなくなった。
授業はまともに先生の話しを聞けない、ダメ学生ばかり。
そして何より、自分がそのダメ学生の一員となって、社会から同一視されることがつらかった。
自分の誇りを失ったところに、拍車をかけたのが大学に入ってすぐの正月、俺が配膳を手伝っていたときに、ふと台所に食器を取りに行ったとき、集まっていた親族がささやいた言葉、「やっぱり〇〇は、失敗だね。心はいい子なんだけど」
と噂されているのを聞いてからだった。
ひきこもりでも、とにかく耳が痛い情報をインプットした
そんなことを打ち明けたとき、紹介された動画がイケハヤ大学だった。
Fラン大学に行くことはまったく無駄、行くな、という内容だった。
もちろん、俺はそのときすでにFラン大学を退学して、実家で7年目のひきこもり生活を迎えようとしていた。
毎日はただFPSをして、Twitterでネガティブを吐いて過ごす日々だった。
このイケハヤ大学の動画は、自分が頭の中で考えてきたことが、しっかり言語化していた。
自分が狭い価値観や考え方に囚われて、これからの時代は今の自分をまったく恥じる必要がない、ということがわかった。
親にはまったく受けいれてもらえなかった、考え方だ。
このマナブさんやイケハヤ大学の動画が、プログラミングを勉強をしようとしたきっかけだった。
そのときには「これから、自分の人生を少しずつ変えていこう」という気持ちと、「新しい自分への希望」が少しだけ芽生えていたと同時に、わかこくへの感謝の気持ちが大きかった。
ただ、今でも俺は葛藤していることがある。
そんなに単純に希望とか、希望のようなものが出てくるわけではない。
これについて、ここで書いておきたい。

自己肯定感の有無が、長期ひきこもりの原因
ひきこもりでも、年収数千万を稼ぐ人や、もともとひきこもりだったが今では社会で活躍している、という人は山のようにいる。
つまり、ひきこもりは、長期無職の言い訳にならないのだ。
ひきこもりから脱出した成功者は、ひきこもっている期間に何か将来に有益なことをしていた。
たとえば、今、俺がしようとしているプログラミングの勉強。
資格の勉強や、自己啓発書の読書など、youtubeをみることもそうだ。
しかし、じつは気分が沈み込んで長期間、ひきこもりになる人は、これができない。
理由は次のようなものである。
これを知ると自分は、自分の状況がわかって楽になった。
◇友達や恋人との交際経験が他の人と比較して圧倒的に少ない
◇成功体験が少ない。逆に失敗体験のトラウマがある
◇人と会話になると、 言葉が出てこないときがある
◇正しい解答があると何かにつけ思い込んでいる
◇他人にどう思われているかを気にしてビクビクしている
これが原因で、自分はどうもずっとひきこもっているのだろう、ということが自分でわかったことが、前に進む一歩だった。
べつにそれでどうということはないが、とりあえずこの状況に自分はあるんだということを知るだけでよかった。
たとえば、先に紹介したマナブさんの場合だが、気持ちが沈む長期ひきこもりの視点は、
「こいつイケメンだから女子からもててきただろうな」
「ひきこもる前は、企業にインターンしたりイベントしたり、もうすでに基礎的にもってるコミュ力が違う」
「有名大学出身だから、受けてきた教育が違う」
こういう感じで、すぐに自分と目の前の語りや情報(マナブさん)を比較して、「違い」に目を向けてしまう。
それを打ち明けたら、冷たく「コンプレックス」だね、と言われた。
それがきっかけで、劣等感やコンプレックスという心理学の言葉を検索した。
自分の状況が他人の目で見えた気がした。
こんな感じで、難しくても心理学を勉強するが、自分のことを考えるきっかけになった。
そして、人との違いを自分で見つけて、何もしない理由を見つけて自分を納得させようとしてしまう、そんな自分が原因でずっとひきこもっていることに気づいた。完全に自業自得だった。
一時的に落ち込むだけではなくて、いつまでも長期のひきこもりをするのは、完全に自業自得だ。
だから実は紹介した動画はいずれも、すぐには受け入れられなかった。
業のなかにいるひきこもる男の心理は単純じゃない。
仏教の「業」は、自分の意志をつくるための過去のいろいろな原因が複雑につくりだした自分の意志のありかた、身体、言語による行為がもたらした、今の結果であることを知った。
だから、自業自得というのは、自分だけのせいで自分を責める言葉ではない。
今、俺をつくってきたすべての世界と自分のかかわり、周囲の人との縁や環境も含めての、いまの自分が得てきたすべてだと思う。
俺の場合、自身のなかにあった思いは、そもそも、何もしてこなかったという思い罪悪感に似た自責の思いだった。
日々、親との生活の中で、飯一つを作ってもらって食べるだけで死にたくなるように自分を責めてきた。
俺には何もできない。
「何かを頑張ろう」、「勉強をしよう」とか思えるためには、最低限、自分を好きになれるところがないといけない。
それを自己肯定感というのか、どうかはわからない。
ただ15階建てのビルを素手でのぼるバカがいないように、自分にできないことをしようとする奴がいないのと同じだ。
ずっとひきこもりをする心理では、縄をつけられた象が、縄を取られても逃げ出さなくなるみたいに、「自分にはできない」ということが、すべての前提になるのである。
だから何もしない方が普通の自分になっていく。
だから、プログラムの勉強をやろうとしても、「できないだろうな」と思う。
いまでも、思っている。
「努力をする・しない」ではない。
努力の先にある、希望がまず見えないのだ。
希望がないから、人生の目的が見えないのだ。
地図のない航海に出たくないように、目的がないのに努力もできない。
どうせ沈没する船に乗っているのだから、という無力感だ。
だから、長期ひきこもりはすぐに「自殺」を言い訳にして、「どうせ死ぬから」と言って、今の自分をやり過ごそうとする。メンヘラになる。
ひきこもってずっとやってきたTwitterをみていても、だいたい日中、馬鹿みたいにツイートばかりしてネガティブしてるひきこもりの奴らは、同じだった。
ちょっと頭がいいやつは、競争社会を批判する。
弱いものいじめをする社会を批判する。
そんなツイートも多い。
いつも共感するが、そういう奴に限って、もう5年以上、変化がない。
自業自得状態の場合の一つの判断材料は、「変化がない」なのだ。
自分を知らない、いつでも今の自分に不満をもっているが、そのいやな結果を生み出している考え方や行動が何かを知らない、そしてそれを変えるために何をしたらいいかもわからない。わからないというよりも、行動するための勇気や気持ちが沸いてこないのだ。
変化が起こせない、といってもいい。
だから、主体的にひきこもりたくてひきこもっているのではなく、結果的にひきこもりになっている。
だから自業自得だと思っている。
選択できる自由がないのだ。
別に強制されているわけではない。
自分の考え方や物事の見方、とらえ方が、完全に自分から主体性みたいなものを奪っている。
だから、自業自得だと思うのだ。
自分を責めているわけではなくて、自分の人生を振り返ると、どうも他の人がもっているもの、もつ機会があったものを奪われてきたように思うのだ。
自分には生きていくために、奪われたものがある、
ただそれを把握するだけで、自分のせいにせずに、でも自分次第で何か変化を起こすしかないことに気づいていった。
成功体験がないから、何もしようとしなくなる
友達もできない、できても裏切られたり、軽いいじめにあってきた。
だから、友達といてもおもしろくない。
気をつかってばかりで、しんどいだけだ。
恋人なんてできたことがない。
母親以外の異性に愛されたことなんてない。
そうしたことを、自分で日記に書いてみたら、わかってきた。
自分が何かをできない理由は、自信がない、というよりも人に受けとめてもらえたことがない。
自分を肯定できないのは、他人に肯定してもらえるような成功体験がないから、そもそも知らないのだ。
それができたためしがない。
行ったことがない宇宙の話をされているようなものだ。
希望をもっても、その希望通りに生きたためしがない。
そんなときに、家で何をしているのか、日記で書くことではっと気づいた。
おれはFPSなどゲームをしてきた。
どうもゲームとネットサーフィンもする。
あと、映画も見る。
しかし、これらは、好きというほど、前向きでもない。
好きではなく、それ以外にできることがないだけの話だが、それをすることに「努力」をしていると感じない。
それが俺の後ろ向きだが、ささやかな希望になっている。
そして、とりあえず、youtubeだけはいろいろ見るようになった。
見るだけなら、ひとりでだれとも会わずにひきこもったままできたのだ。
それでも、ずっとyoutubeの動画の多くが好きになれなかった。
「どうせ成功者はもともとできるやつ、友達も恋人もできたり、大学もいいところを出ていたりするやつ」だ、と思い続けてきた。
そうだ、なぜかひきこもりから成功する奴は、学歴があったり、なくても頭がいい奴であることに気づいた。
どうも頭の良さは、ひきこもりに関係するように思う。
しかし学歴コンプの自分には、それが嫌で嫌で仕方がなかった。
ただ、本当に奇跡だったことは、わかこくと出会って、ホームページの作り方:HTMLの初歩をだらだらとみて、メモ帳を開いてかんたんなコードを入力してみたことだった。

Hello, world! がブラウザで表示された。
プログラムを学ぶ人は、誰もが初め、このテキストをブラウザに表示させることから始めるらしい。
これまで、この世界中で、何人の人がプログラムの門をたたき、これまで色々な場所と思いで、この言葉を目にしてきただろう。
俺が入力した、Hello, worldが、今までいろいろな他人のブログやゲームや動画を映していたブラウザになぜか映ったのだ。
ずっと自分の自信を奪ってきたworldに、helloと声をかけていた自分。
びっくりした。
Hello, world!
思い返すと涙が出る言葉になった。
Hello, world!
そんなことを思えたこともなかった世界に、helloと呼びかけていた瞬間、自分が生まれ変わったようにどこかで感じた。
うまくこれ以上のことは書けないが、今年に入って起こった出来事だ。
まとめ
プログラミングなら、大学受験までの勉強とはまったく違った。
高学歴と競争しなくても済む。 もう5教科はしんどい。
どうも自分は勉強や教養が足りない。
メルチャンさんが書いたことを読んで、突き刺さるものがあった。
もちろん、世の中にはすごいプログラマーはたくさんいるだろうが、とりあえず家で好きなことをしよう、という気持ちになって、それが結果的にプログラミングの勉強ということになりそうだ。
べつに収入とかにならなくてもいい。
どうせひきこもるなら、どうせ自由な時間があるのなら、すこしでも 未来にかかわりそうな楽しいこと、自分が笑えること、好きなことをしようとしているだけだ。
つづく
