頭を良くする方法~ディベート編~

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 皆さんは、ディベートというものをご存じでしょうか。

ディベートとは、日本語で弁論または討論と訳されるもので、発表者が二手ないしはそれ以上に分かれ、視聴者を納得させるというものです。

日本では「ディスカッション」の方が有名化とは思いますが、ディベートはそれと比べると少し批判調が強い形になります。

 さて、なぜこのような話をしたか。

それは、ディベート(また、それに通じる考え方)が私たち中高生にとっては頭を早く回転させるのと同時に、社会の中でその問題がどう見られているかを徹底的に知ることができる機会だからです。

つまり、そういったディベートを通すことによって、新たな社会の見方ができるということになるのです。

討論会に等しい

 では、そもそもディベートにおける主題。

つまりテーマは何かと言いますと結論は「なんでもいい」というものになります。考えてみればわかるとは思いますが、世の中に「絶対」ということは、数学の世界と理科の世界の一部分にしか存在しないのです。

例えば、1+1が2であるとか、人間は必ず死ぬとかそういったいわゆる「真理」の部分です。

 逆に、それ以外の分野、例えば歴史解釈だとか、現代文の読解などがこれに当たります。

また、現代社会の中においても例えば「飲食店は全面的な禁煙に打ち出すべきか」なんてことを一つ切り出せば、たちまち肯定側と否定側に分かれてしまうでしょう。

むしろ、今までそれで肯定・否定の一色に定められていたとすれば、今の世の中で、こうも議論が巻き起こることもなかったと私は思うのです。

 ディベートはこういった問題について徹底的に議論を行います。

生半可なリサーチや結論では相手以上に視聴者を納得させることはできません。

多くの方が共感すると思いますが「Aはこういった成分を含んでいる。Aは口の中でBとCという物質に分解されて、このうちBは人に対して甘味の感覚を覚えさせる。Cは胃の中で分解され、小腸で吸収、最終的には肝臓に蓄えられる。したがって、Aを食べるということは人間の幸福と栄養学の両方から見て、摂るのがふさわしい食べ物なのだ」という意見と

「Aには多分、人間に害を与える物質が入っていると思います。なぜなら、食べると苦く感じることがあるからです。苦いということは多くの場合、人間への警告を表しています。だから、Aには危険な物質が入っていると、体は警告しているのです。したがって、Aという食べ物は人間への健康面からの摂取は控えるべきです」という意見があった際に、あなたはどちらを選びますか?

 多くの人はきっと先の意見に賛同されることでしょう。理論的でかつ、資料も多く提示されている。

その資料も実験によって得られた結果もしくは、それをそのまま再掲載した雑誌あるいは新聞の記事から得たものであり、客観性が保証されているからです。

一方的な見方になっていないかどうか

 対して後者は、多くを主観に頼っていて、最後には感情的に訴えているという形になっています。

私もこうやってブログに記事を掲載していますが、あくまでもこれは「ブログ」であり、主観が入っても全然かまわない、むしろ、入れるべきだとさえ思います。

しかし、これが仮に視聴者を説得するためのディベートの中での発言だとしたら、あまりにも頼りなさすぎますよね。

 さて、ディベートの流れを説明してしまうのもいいのですが、やり方は一つではありませんし、本筋とは離れていってしまうので、今回は省略します。

 では、なぜディベートが頭の回転を良くするのか。

ここまでしっかりと読まれている方は薄々お気づきかと思いますが、ディベートをする上では資料が大切なのです。

いかにしっかりとした資料が効力を持つか。

それは行った人と聞いた人にしかわかりませんが、それに客観性があればあるほど(つまり論文に一番客観性があり、次いでリサーチ結果などに客観性がある)その資料は良質ということになります。

これは、将来プレゼンをするうえでも重要ですし、そういった観点で情報を見極められる人たちは、それなりの教養があるということを示すことにもつながります。

 この情報があふれてしまっているとも言われている社会で、どの情報が重要でどの情報が重要でないか。

それを判断するのは完全に視聴者に任せられてしまいますが、その大元の基準が揺らぐことはありません(少なくとも界隈の権威の中では)。

ですから、これらの情報に常にアンテナを向け、その情報を見る聞く話すようになるということは、頭を良くするうえで重要であるということなのです。

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