はじめに
皆さん、お久しぶりです。前回の記事更新から約1週間が経過しましたが、皆さんはお変わりありませんでしょうか。
自分語りにもなってしまいますが、この1週間で、私を含めた多くの方の生活が変わってしまったのではないかと、個人的に思っています。
日本政府による、7都府県への緊急事態宣言(近々、47都道府県へ拡大するそうですが)が発表され、不要不急の外出は制限、人との接触も7割削減することが望ましいとされてしまいました。
感染症は人を死に至らしめるという点で非常に恐ろしいものですが、私にとってみると、それと同様かむしろそれ以上に、人間の行動と教育の保障が十分でないというところに、底なしの恐怖を感じます。
今回は、その中でもインターネット授業を通じて感じたことを述べていきたいと思います。
インターネットの有用性
私の学校は3月末の段階では4月中の登校日に変更はありませんでした。しかし、4月に入って状況は一変。最初の2日間を登校日として、残りの授業は未定とする方針でした。
ですが、緊急事態宣言の発表によって、その計画も再検討に入り、結果として5月まですべて休校、授業はGoogle Classroomを使用して行うというものに変わりました。
間接的なインターネットでの授業ということで、当初自分が想像していたことは、東進ハイスクールのような映像授業、あるいはN高のような通信制教育への変換でした。
インターネットを介した授業であれば、家でも授業は受けられますし、それなりの対応を施せば、全員の顔を見ながらも授業が受けられるのでは、と思っていたのです。
しかしながら、現実は違いました。
ポイント①:システムが複雑
さて、このGoogle Classroom、使おうと試みたものの、まずこれが複雑だったのです。高校では「情報」という単元が存在するので、それでいくつかのインターネットサービスを使うということもあったものの、Google Classroomはあまりにも初めてのことが多かったのです。
システムを1つ設定するにも、パスワードを入力しなければならない、さらには、完全な日本語に対応していない(英語から機械翻訳をしたものである)ために、説明が完璧に伝わるわけではありませんでした。
ですが、この点に関しては、本来であれば学校で1度ガイダンスを行ってから各個人でアクセスするという形を取ろうとしていたことを鑑みれば、多少なりとも仕方のないことかと思ってしまいます。
ポイント②:通知が整理できない
Google Classroomはその名の通り、アメリカの大手IT企業Googleが提供しているサービスです。ですから、gmailも使用可能なのですが、これがまた複雑で、複数人の先生から一度にメールがくる場合には整理が困難になるのです。
活字離れが進んでいるといわれるこの現代社会で、若者はどんどんと長文から離れる傾向にあります。また、メールを受信しても、その全文が長すぎる場合、それを若者が当たり前のように持っているスマートフォンで読むには、あまりにも不適切であるのではないかと思うのです。
個人情報の観点から、ここに掲載をすることができないのですが、やはり同じ内容であれば、紙数枚にまとめてあった方が読みやすいのではないのかと個人的には感じます。
ポイント③:新しさを感じない
その後、色々と使ってはみたものの、やはり一般的なサービスと比べると、学校教育に特化したGoogle Classroomは、その機能に制限がありました。
また、個人的に一番残念だったことは、最初に述べたような映像授業が行われなかったということです。学校からはクラス分けの通知が来たものの、結局のところ、蓋を開けなければ、クラスメイトという繋がりをかじることはできませんでした。
一般であれば「これが新しいクラス」という躍動感にあふれた1か月が幕を開けるはずだった4月、あまりにも淡白で、味気のないものになってしまいました。
尤も、現在ではLINEなどのアプリが存在しますが、個人あるいはグループであっても四六時中コンタクトを取るのは難しいものであり、やはり「学校」という場の代わりにはならないものであると実感しました。
ポイント④:堕落した生活になる
最後のポイントですが、これは学校生活に限らず社会生活を営む上で非常に重要なことでした。それは自堕落な生活になってしまうということでした。
学校や会社、あるいは開業医である医者などにしても、一般的に「労働」「学習」といったものは、「社会形成」の一環として、時間を決められて行うモノでした。
また、「ノルマ」といった目標に向かって努力をしていくというのも人間ですが、実際のところ、そのノルマ自体もある程度「制約の中でどれほど頑張るか」というものが重要なカギになっています。
つまるところ、学校へ行くという機会がなくなったために、人間は時間の「有効活用」という名の、制限なしの生活を行うようになったのだと感じています。
学習においても重要で、学校に行かなくなったことにより、自分を律していたものがなくなり、何をすればいいのかわからなくなった、自分で探すにしても何が最適解なのかわからなくなった、ということです。
尤も、自分自身でそれを律すればいいのではないかという意見も存在しますが、やはり「目安」というものが重要なのではないかと思うのです。
結論
東京大学の進学人数・進学率が全てというわけではありませんが、現在の日本において、特に教育という分野において、世界と比肩するレベルの教育を受けることが可能な高校生を見た時に、その多くが定時制の学校から輩出されていることが分かります。
確かに、近年ではN高といった通信課程から進学したということが騒がれていますが、それでも人数は1人であり、その1人が何人の中で揉まれていたのか、あるいはどういう環境で生活していたのか、といった冷静な分析が必要となることは必至でしょう。
つまるところ、日本でのインターネット・オンライン授業というもの自体は、まだまだ改善の余地があるようです。