ひきこもりに必要な自己分析

長期ひきこもりに必要な自己分析

目次

今回で、2回目の投稿となる。

前回の記事では、「いつまでもひきこもりをしている人は自業自得に気づくべき」と題して、自分の本音とシビアな意見を書いたと思う。

今回は、「ひきこもり」の状態にある人間がどうしていくべきか、私なりの意見を書いていこう。

まずは自己分析が必要

「ひきこもり」という問題は、存在しない。

それ自体は問題ではないからだ。

それが問題になるのは、それを問題にしたい連中が社会に蔓延っているからに過ぎない。

親や支援者は、ひきこもりを問題にすることで、自分たちの欲望を満たそうとする。

子供の気持ちを無視して、自分の「こんなあるべき人生のために、我が子を助けてあげたい」気持ちを優先し、勝手にこちらのことを決めつけてくる。

支援者はそれで収益を得る。

ジャーナリストや研究者は、記事や本のネタにして収益を得る。

こいつらがやってきた決めつけがイヤで、俺たちは引きこもっているのだが・・・

奴らは自分を省みない。

そこで、ではガチ目で長期間ひきこもっている俺たちが何をしたらいいのだろうか。

俺なりの意見に過ぎないかもしれないが

自己分析からスタートする、というのが正解だと思う。

①社会的な関係を築く能力が自分にはあるのに、孤立しているのか

②自分に社会関係構築能力がないために、孤立しているのか

この2つを軸に、まずは自己分析してみてほしい

このいずれかで、大きく自分に対する対応の仕方は変わってくる。

①の場合は、社会(関係)に対する心理的なレジリエンス、一種の抵抗の一つとして「ひきこもり」を選択していることとなる。

もちろん、選択といっても積極的に選択していない場合、消極的に自宅・自室にずっといる、ということも多くあるはずだ。

当たり前だ、クルマにだってパーキングエリアが必要なように、普通、人間だって一人になる時間、学校や企業にも所属せずに無職で自分の時間をもつことだって必要なときがある。

そのあたり前のことを、当たり前と思わない社会が病的なのだが、

この日本社会は、学校か企業に所属していなかったら、十把一络げに「お前は病的だ」という意味を込めて、「ひきこもり」というレッテルを貼ってくる。

恋人や友達がいて、そういった人間関係のなかで色々な思い出があったり、人間関係構築能力があるが、現状は何かの理由で孤立することになっているのなら、問題はそれほど深刻ではない。

この場合は、ひきこもって、自分が人生でやりたいこと、やるべきこと、やりたくないことをしっかり考える時間に充てればいいだろう。

映画を見たり、ゲームをするのもいい。本を飛んだり、動画を見続けてもいい。

しかし、次第に「自分は何とかしなければ」「他の友達はもっと色々な社会経験を積んでいるはずだ」ということに気付けるのであれば、どんどん気持ちは焦ってくるはずだ。

焦ってくる、ということは、今の自分、つまり、何の目標も設定しまいまま遊んでいる自分が良くない、という判断ができているということだろう。

焦る=自分を否定する、ということは、ある意味、社会的には正常な判断ができる証なのだ。「このままでは、ダメだ」とわかっているからだ。

そうなれば、そのプレッシャー、自己否定をバネに、とにかく自分の目標設定、自分がどのような仕事をして、どんな環境で働きたいのか、

そのためにどのようなスキルが必要なのか、を調べて、勉強・学習する時間をしっかりとればいいだろう。

インキュベーションという言葉がある。

起業家が、鳥として飛び立つまでの孵化―自己培養―自己成長を遂げる期間や環境のことだ。

食事や家賃など生活コストを親に払ってもらうことで、数十万円を稼いでいることと変わらない生活ができているのがひきこもりだ。

いや、それどころか24時間、自由に自分の時間を活用することができる。

youtubeで「ひきこもり」と検索すれば、エセ支援者・エセジャーナリストやメディアの煽り動画ばかりが出てくる。しかし、むしろ「ひきこもりたい」「適度な社会との距離感がある、自分を大切にする働き方がしたい」といった前向きなひきこもりのとらえ方をしている動画もある。まなぶの動画などがいい例だろう。

問題は、「人間不信」になっている状態

繰り返すが、ひきこもりは問題なのではなく、問題は自分自身の心の傷、他者への不信、人間として最低限必要な自信の喪失、無気力といったものだ。


こういった問題は、幼少期・思春期の 色々な 経験、その受け止め方=落としどころに応じて、人間としての自分の成長過程に関わっている。

たとえば、友達や恋人に裏切られた、これはきっと誰もが経験する人間不信になるきっかけだったりするだろう。
しかし、もしそのときに、友達が一緒になって
「アイツ最低だな」「お前が悪いわけではないんだからな」
と言ってくれたらどうだろう。

自分が一方的には間違っていない、

そう思えるきっかけが、ひと欠片でもあれば、しかもその欠片を他者から与えられれば、きっと人間不信にならなくて済むだろう。

自分を傷つけたのも他者だが、自分を癒してくれたのも他者だからだ。


しかし、もし自分一人VS他人全員、といった状況を経験すると、自分しか信じる者がなくなる。

しかしその自分も、果たして正しいのかどうか確信がもてない。

他者から承認を得られていない自分を、自分自身で承認することができないからだ。


周囲に自分を肯定してくれる仲間や友達がいないと、 自分自身も信じられなくなるのだ。

つまり、人間にもっとも必要な能力とは、勉強でいい点数を取る能力ではなく、友達を作る能力だ。


前回の記事でも言ったが、ひきこもりが長期化するケースというのは、最初の自己分析であった②のように、そもそも友達ができない、恋人もできない、相手を不快にさせる言動を取って自業自得で孤立しているケースなのだ。

人間関係構築能力は、食べることと同じくらい生存に重要

食べることをしなければ栄養失調になる。
風呂に入らず不潔な環境にいれば病気になる。

病気になったら、その原因を取り除かなければならない。

こういった身体に関わることは、目に見えたり知覚できるから、生存上の危機があったりした場合にわかりやすい。

しかし、そういった身体的なこと以上に重要なことは、心理的な生存条件だ。

そもそも、「食べること」を身体が欲しても、栄養失調に自分をさせてしまうのではいけない。 自分をケアする意志が、自分をネグレクトしないための前提に必要だということだ。

自分を生きさせたい、という思える自分でなければ、人間は生きていけない。


風呂に入るのも、そういった心理でなければ入れない。
ゴミばかりが部屋にためてしまっても平気になってしまう心理では、掃除をすることもできなくなる。

人間にとって一番大事なことは、仕事や収入があるとか、物質的な豊かさではなくて、心理的な幸福感だ。

しかし、学校や親の教育では、俺たちの気持ちや心理なんて二の次だ。
テストの点数や偏差値、大学の名前、企業の大小だけで、すべての価値を図ろうとする。


心理的にしんどいことでも、無理してやれと言われる。

過保護の親の場合、恋人を作ることを邪魔する。

友達から引かれて面子がつぶれるくらい、親が平気で介入してくる。

子供の世界に、平気で親が入ってくる。

親の次は支援者が、入ってくる。

メディアとジャーナリストが、その親を煽ってさらに親が焦る。


そんな 環境がきっかけで友達を作る力が失われることは、換言すれば自分を肯定して自信を与えてくれる機会を奪われる、ということだ。


たとえば、俺は 学生のうちに絵を描きたい、芸術の道に進みたい、と思っても、俺の親は普通科の高校、大学に進学しろ、と押し付けた。
その理由は、俺がこの世の中のこと、将来のことをわかっていないからだそうだ。
この中国共産党みたいな管理意識、相手を無知だと決めつける独裁的な子の意思殺しが原因で、多くの場合、俺たちは自分の将来を考える力、自分がやりたいことをやりたいと思って、それを実行する力、それができると信じられる自信を失うことになった。


俺たちは、人間としての生存能力を剥奪された教育を受けた、ということだ。
それで、俺が考える、こういった長期のひきこもり、人間としての能力をはく奪されて孤立している人間がまずすべきことは、
ここで書いてあるように、

自分が人間として必要な能力を奪われたたために、適切な判断と行動、意思決定ができない状態にある、ということをまず認めることだ。

ここに書いてあるような事態にあることを、客観的に自己把握することだ。


つまり、「どうしてこんなになってしまったんだ」という自分の悩みをそのまま悩むのではなく、そのように悩んでいる自分を見つめてみる、ということだ。

そして、「俺には何か、欠けているものがあるんだ」ということを認めることだ。

そのせいで、適切な判断ができなくなっている、ということを認めるのだ。

たとえば、「いや、もうちょっとこのままひきこもろう」

「俺には何もできないんだ」 「どうせ希望なんてないんだ」

「俺は異性とまったく無縁の人生だ」「バイトせず、このままもう少しいてもいいだろう」

そういった思いや判断、自分が正しいと思っている判断が、実は間違っていることに気付くべきだろう。

というのも、そんなことを思って考えて、自分で自分を決め付けたところで、どうせ1年後もまた同じように、悩み続けてきたはずである。 

前向きで建築的な判断や意思決定が自分ではできておらず、いつまでたってもどうどう巡りになって、行動を起こせない。

自分が嫌なことから逃げるばかりで、自分を変えることができない、といってもいいだろう。

自分を変えるために、環境を変える行動さえでもできないのだ。

自分を変えること、環境を変えること、そのどちらもできなくなった状態のとき、ひきこもり状態が長期化することとなる。

そんなときに、本人が変わるきっかけは、何だろうか。

どうすれば、自分を変わるきっかけを得られるのだろうか。

今日は疲れたので、これくらいで終わっておく。

さとなか|わかこく

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