私の悩み解決方法-中国古典・歴史に立ち返る

古典と教養

目次

久しぶりの投稿になります、メルちゃんです。

私は「意思決定」の着眼点から日本のひきこもりの調査研究をしている大学院生(修士)です。 前回は、「自分のことは自分で決める」と題して書きました。

日本も中国も、いまはコロナでたいへんですね。 パンデミックの中心はヨーロッパに移ったといわれますが、Covid-19は退院した人が再び発症・感染したりするケースが報告されているため、油断ができません。

さて、2020年2月のことですが中国語を勉強くださっている皆様に馴染み多い、日本漢語水平考試(HSK)の事務局は、2万枚のマスクと赤外線体温計を湖北省に寄付してくださいました。

その際に、物資のダンボールのラベルには

山川異域、風月同天 (寄諸仏子 共結来縁 )

意味: 山川域を異にすれども、風月は天を同じとす、 諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

と記載されていました。

HSK日本事務局提供(2020年1月30日撮影)。(c)Xinhua News
画像引用( http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2020-02/12/content_75698282.htm

この句は、中日の仏教交流の故事に由来しています。

日本の長屋王が中国・唐代の高僧に送った千着の袈裟に記されていたのがこの詩で、奈良時代に日本へ仏教を広めた鑑真(ガンジン)を感動させ、彼は日本に来ることを決心したとも言われています。

その後、富山県が中国東北部・遼寧省へマスク1万枚を発送下さいました。そのときにも、段ボールには次のような漢詩が添えられていました。

遼河雪融 富山花開 同気連枝 共盼春来

意味:遼寧で雪が溶ければ 富山で花が咲く 同じ木でつながる枝のように 春が来るのをともに望む

このような支援物資に添えられたメッセージに、中国人は深く感動しました。

私もその一人です。

そして、中国のネットの声も、「教養がないと、言葉を介した深い感動や人との交流を味わうことができないのではないか」と自分たちを戒めるきっかけとなりました。

古典・歴史の大事さ

私は小学校・中学校・高校と中国で教育を受けました。

日本での国語と呼ばれている科目は、中国では「語文」といいます。

特にリテラシー教育(読み書き)に関して中国と日本の大きく異なる点は、中国が作文教育、書く能力を非常に重要視していることです。

街中には、写真のように作文教室が塾としてあります(わかこく撮影・提供)。
こういった作文教室では作文のほかに口頭発表の仕方を学んだり、あがり症の克服や司会(口頭発表や弁論、ファシリテーション)の仕方についても学びます。

中国の初等教育では、儒家の有名な文章や詩を丸暗記するなどします。(だんだんと減ってきています) これは子供時代には苦痛な勉強なのですが、大人になってからすごく良い教養の深め方だったと振り返っています。

言葉を通じて詩を学び、詩を学び歴史を学びながら、過去の人と自分の心境を重ねたり、色々と悩みがあった際には故事に倣って価値判断をしたりする習慣が身につきます。

そのためか私たちは、進路に悩んだり人生で大きな壁に当たったとき、日本や西欧諸国のように心理家のカウンセリングや精神科医療を受診する前に、歴史を振り返って学んだり、学校で学んだ過去の出来事に習ったりすることでまず自分でまず悩みについてしっかり考えます。

私が日本でひきこもりの人たちと出会ってインタビューをしてみて、「日本と中国の若者と何が一番、違うのだろう」と思ったときに、そういった歴史から自分の心を癒すことの有無、「歴史」と自分の関わりに対する考え方の違いにあるように思いました。

*もちろん、中国人・日本人という区切り方は正しくありません。そのようなことを言うためには、教育政策に着目した比較を行う必要があるでしょう。

人生の悩みは病院では治せない

現代社会では、数学のように正しい答えが1つだけある、頭がよかったり人間の知性が高いと、その回答が出せる、といった発想が強くなっています。

そうして、科学などの客観的な裏付けや証拠によって自分たちの主張を正しく導ける、と勘違いしている人が増えていることが精神病理の問題です。

それに病名をつけて医療業界が産業化してしまった問題が、医療化問題です。日本ではこの医療化問題が、まったく問題化されていないG7では唯一の国となっています。

現在の日本社会の考え方からしますと、科学の因果律によって現在に生起している問題(結果)に対する、原因がある、と考えます。この発想で問題解決が図られるとき、この発想そのものが現実化していきます。

原因を取り除けば、たとえば病気が治ったり、社会の問題も解決する、という考え方です。何か特定の原因がある、あるいはそれを発見できる、発見できなかったらだめだ、ということです。

これは18世紀ー19世紀の西欧から由来した科学的な考え方で、自然物を対象として考える際には確かに非常に重要な考え方です。他の国ではこの近代科学の考え方は、否定・批判されていますが、日本をはじめアジア圏諸国の多くは知性文化としてその問題意識をもっていません。

科学の考え方はそのまま人間の心に応用してしまうと、人間を物のように扱うことになり色々な社会問題を起こすこととなります。

とくに心理的な問題についていえば、誰もが「正しい」と思っていることよりも「私が感じていること」の主観的な認識事実が本人にとって現実的であるにも関わらず、その主観を無視した客観だけが正しい、という押し付けを生むからです。これは、ナチスドイツが発展させたような優生学思想と同じ発想です。

「そんな感じていること・考えていることは間違っている」と周囲から伝えられても、事実、そのように感じたり考えてしまっている本人にとっては納得できません。当然ですが、人は人の忠告とおりには、容易に考え方を変えることができなかったりします。

なぜなら、私たちは統計上の理想的な数字や一般的な人間ではないからです。

私たちの人間の尊さは、世界に一人だけの人生を歩んでいることにある、という事実があります。

そのため、私たちは科学的な方法で、私たちの人生の問題を解決することはできません。

人それぞれ感じ方が違い、時代によって解決方法も異なり、場所が異なれば「解決」の定義も変わります。

しかし、私たちは自分の心の中や主観に起こっている事実に対して、歴史を振り返って、そこに人間の個性を超えた、問題解決の手がかりを得ることができます。

大事なことは、自分自身の心に響く、芸術、を媒介して私たちは歴史と直感的に出会う、ということです。

日本では風邪を治すように病院にいって、薬を飲めば人生の悩みは解決する、と考える人が多いようですが、私はそれ自体が日本の社会問題だと思います。

私は日本人の同世代の方に、ぜひ歴史と古典を学ぶことで、自分の悩みを自分で解決することをお勧めしたいと思います。

たとえば最近、私は『貞観政要』という唐の時代の政治学をまとめた書物から自分の悩みを解決する手がかりを得ました。

太宗嘗謂侍臣曰:「夫以銅為鏡,可以正衣冠;以古為鏡,可以知興替;以人為鏡,可以明得失。朕常保此三鏡,以防己過。

『貞観政要』 巻第二 任賢第三 第三章

それ銅をもって鏡となせば、もって衣冠を正すべし。古をもって鏡とすれば、もっと興替(国の行く末)を知るべし。人をもって鏡となせば、もって得失を明らかにすべし。朕つねにこの三鏡を保ち、もって己の過ちを防ぐ」

これは、三つ鏡によって、私たちは意思決定をしていこう、ということを教えてくれる言葉です。

ひとつ目の鏡は自身の姿を観るための鏡です。これは、自分が理想としている人物を鏡としてみたり、良好な健康状態やあるべき振る舞いをしているモデルを見つけよう、その人を鏡として現在の自分を見つめて、その違いを考えよう、ということです。

ふたつ目の鏡は歴史を学び、目の前の課題解決に役立てる、ということですので私がここで話していることを言っています。

三つ目は、自分自身に耳が痛い言葉、厳しい意見を言ってくれる人を鏡として、自分の意思決定に役立てよう、というものです。

「 この三鏡を保ち、もって己の過ちを防ぐ 」とありますように、この3つの種類の鏡がなければ、誰でも過ちを犯してしまうよ、ということです。

中国・小学校で迎えるお正月の催し(わかこく撮影)

教養は人を助ける

私が日本人の悩みとそれへの対処法を研究していて特に思うことは、

日本人の悩みの対処方法にこういった学問や教養がヒモづいていないことです。

日本人の若者の多くは親や友人に相談できない悩みを抱えたときに、しっかりと考え抜く力がないように思います。

その背景には、価値観に関する教養がほとんどなくて思考が浅い、ということがあります。計算すること、漢字を覚えること、マークシートで正しい解答を出すようなことは日本人は得意であるように感じますが、そういった「正しさ」に自分の側から歩調を合わせていくことを仕向ける教育評価基準の代償について、私たちは考えるべきです。

自分で自分の考えを深めて言葉にする作文の教育がしっかりしていないと、古典や歴史が蓄積されていきません。

しかし日本の国語教育で子供たちは、小説などを読んで「作者はどのようなことを言おうとしていますか」という、読解を選択肢から選ばせるような問題を多く解いています。

このような国語教育では、他者の気持ち、その解釈に一つの答えがある、という考えが植えつけられていきます。

結果として、自分の解釈によって言葉を通じて他者と出会い、自己を救う、という能力は剥奪されています。

そうすると、日本人は大人になっても歴史的に練磨された言葉のストックをもっておらず、浅薄な中身のない言葉しか出てきません。

結果として、価値判断に関する思考力が停止していて、いつも周囲の集団やメディアの情報を鵜呑みにしてしまい、人生のリテラシー能力を低い状態にとどめてしまっているのではないか、と私は考えています。

日本人は礼儀が正しく秩序ある行動をしますが、その規範意識は周囲に同調することに由来しています。
他者と合わせることを規範として、それに従うことに日本人の秩序は由来しています。

しかし、同調する社会や世間と自分の気持ち・こころが齟齬をきたしたり、そこから逸脱する当事者に自分自身がなったとき、自己否定に陥ってその規範を相対化する機会を失ってしまいます。

そのときに、その社会の規範を相対化するために必要な時間軸(歴史)に相談することができないために、多く人が鬱病になったり自殺しているように思いました。

しかし、日本の歴史には幾らでも社会と抗った人物・偉人を見つけることができます。 私は日本のすばらしい歴史、文化をもっと日本人自身がしっかり教育のなかに取り込みながら、自分ごととして子供たちがそれを学ぶ機会を増やすべきだと考えています。

日本人がしっかりと自分の「鏡」をもっていない理由は、日本での教育で「文系」といわれる学問群の意義を、社会の大多数が理解できていないからではないかと考えています。

まとめ

「教養」という言葉に着目して、私は今後、不登校、ひきこもりの長期化と読書経験といったものとの関係を調べてみたいと考えています。

高い学歴のひきこもりの方も非常に多いのですが、読書をする場合に長期化する率は低いのではないかと考えています。

メルチャン

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