仏教&メディテーションのすすめ!―長期無職ひきこもりこそ仏教が大事―

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RE:ひきこもりは自業自得

これまで、長期のひきこもり状態にある経験者の立場から、いくつかブログを書いてきた。
ひきこもりは自業自得」というのが、私の一貫した持論だ。
しかし、誤解しないでほしいことは「ひきこもりの状態のある人を責めたいわけではない」ということだ。

今回は、ここのところは少し詳しく書いていきたい。

謙虚な人間は長期無職でひきこもらない

素直に自分のことを責められる人は、他人のアドバイスを聞くだろう。
なぜなら自分に自信が本当になかったら、自分が考える判断よりも他人の判断に従うだろう。

自分が他人にどう思われているか、など執着せずに、他人のアドバイスをそのまま素直に聞くことができるだろう。

長期間、誰の意見にも従わずに孤独に無職で無目的にひきこもっている奴は、ある意味、いろいろな欲望にまみれている。

「自分を守りたい」

「自分の面子を保ちたい」

「他人に良くみられたい」

「人の上にいきたい」

そんな願望があるから、それらが失敗している自分を責めたり、失敗することに恐怖を抱いて、ひきこもりになっていく。

そして、ひきこもりを長年する俺たちに限って、かたくなに人の忠告やアドバイス(特に親からの意見)に聞く耳をもたない。

その理由は、劣等感コンプレックスにさいなまれて、まったく自分を尊敬できる要素がないからだ。


おもしろいことに、そんな奴に限って、自分を過剰に尊敬したり、自信過剰に陥っている。

それを証拠に、長期ひきこもりの俺たちに共通した兆候として、「やたら偉そう」というものがある。


社会で働いた経験も、恋愛の経験も、遊びの経験も無いはずの長期ひきこもりに限って、どんどん社会、労働、恋愛、遊びに対して偉そうな意見を言うようになる。

知らないことを、知っていると勘違いしていく無知の典型だが、おもしろいことに親に偉そうなことを言ったり、ネットで知ったことを偉そうに親に話したくなったりしてしまう。

しかし、本当に優れた人間、立派な人間ほど謙虚なもので、他人の忠告は客観的に冷静に受け止められる。

他人に偉そうに言われても、怒りを見せない。


なぜなら、本当にしっかりしている人間は 自分が知っていることと知らないことを自覚している。つまり、自分を知っているから、基本的に謙虚なのだ。

しかし無職のニートや、学歴コンプレックス、貧乏底辺、結婚できない状態の30代など、劣等感が強ければ強いほど、劣等感が強すぎて過敏に他人の言動に反応してしまう。

その理由には、自己肯定感を脅かされた状態にあるからだ。

つまり、本気になるくらい危機に煽られているからだ。本当の自信がないから、不安なのだ。いろいろな恐怖に囲まれてしまうからだ。
たとえば、他人が

「俺の存在価値を低くみているんじゃないか?」

「俺をダメ人間だと思ってるんじゃないか?」

「結婚できない自分を、欠陥人間だと思っているんじゃないか?」

こういった恐怖が強まれば強まるほど、まったく逆に極端な強がり、過剰な自尊心や根拠の無い有能感(仮想的有能感)で周囲(家族)に意見を言うようになる。

そして、次のようなことを言い出したりする。

「俺は、もともと結婚したいと思っていない」(まともな恋愛経験もしていない強がり)

「こういった生き方をする方が、かしこい生き方だ」(こういった生き方以外をしたことがないにもかかわらず)

「俺はダメ人間ではなく、親・学校・いじめ・社会の責任だ、俺は被害者なんだ」(過剰な被害者意識)

こういった言い訳ばかりが、頭を支配するようになる。

悩みが多い人間、社会的にトラブルを起こす背景には、過剰に強い自己承認欲求がある。

「存在価値を認めてもらいたい」
「人に尊敬してもらいたい」
「人に愛されたい」

こういった欲望が強ければ強いほど、どんどん長期ひきこもりの要因となる悪いマインドが成長していく。

怒り、妬み、嫉み

他人に対して、鬱屈した気持ちが蓄積するんだ。

考えてみてほしい。

本当に欲望が少なく、本当に自己肯定感が無いのであれば、素直に自分が無力であり、自分には生きていく能力が無いと認め、周囲に助けを求めることができるだろう。


そして人に助けてもらったら、「俺なんかのために、貴重な時間を割いて助けてくれてありがとう」と、感謝の気持ちが沸くだろう。

人に感謝の気持ちが沸けば、今度は「自分のことなんかどうでもいい、お世話になった人たちのために生きていこう!」と思い、自然と社会的な役割を得てひきこもりを脱出していくはずだ。

ちゃんと感謝できる人間なら、そもそも人が放っておかないはずだ。

仕事でも成果が出るだろう。

つまり、何の目標も無いまま長期間のひきこもり状態にある人間は、純粋に性格が悪くなっていて、人から愛されないパーソナリティーになっている、と考えるべきだ。

では具体的にどう人格が歪んでいるのかと言えば、欲望が強く自己肯定感に執着しすぎる余り、自分自身に囚われてしまっている、ということになる。

つまり、自己肯定感が低いまま、自己肯定感に執着し過ぎているのだ。

の意味では、自己肯定感が異様なほど、根っこでは強いともいえるだろう。

仏教を学ぶ

実は俺自身がこうしてブログを書いたり、ネットを中心にわかこくの人たちとコミュニケーションが取れ始めたきっかけは、仏教を学べばいいんじゃないか?と薦められたことがきっかけだ。

仏教では、苦しみはすべて人間の煩悩(サンスクリット語のクレーシャ)から生じると考えられている。


古代インドの言葉で煩悩(クレーシャ)は、苦しめる、汚すという意味だ。

この煩悩には、

①貪(とん:「ものおしみ」・物欲・性欲・我欲」)

②瞋(しん:怒り)

③痴(ち:道理を弁えない無知)

の三毒があると言われている。

これに

④慢(まん:うぬぼれる心)

⑤疑(ぎ:猜疑心、人を敬愛できない気持ち)

⑥悪見(あくけん:間違った思い込み)を加えて六種を根本煩悩と呼ばれる。

この6つのことを思い浮かべながら、冷静に自分の悩みについて、考えてみてほしい。

俺たちの心の苦しみは、本当に何かに困っているから生じているのか?

本当に死にそうな状況で困っているから起こっているのか?

食べるものが無いのか、着る服もないのか?

違うだろう。

俺たちの悩みは、たとえば、過去に起こった出来事のトラウマや恐怖、まだ起こっていない未来に対する不安など、現在(いま)・此処(ここ)では本当は何も困っていないことに執着する、上に書いたような6種の煩悩(欲望)から引き起こしているだけだ。

つまり、自分は幸せになりたい、お金が欲しい、人から良く思われたい、尊敬されたい、愛されたい、他人を思い通りにしたい、大手企業で働きたい、学歴が欲しい

そういった欲望が強ければ強いほど、俺たちの悩みは深まっていく。

いいか、俺は今、引きこもっている奴らにとても大事なことを言ってるつもりだ。

お前は欲望が強すぎるんだ。

完璧なくらいに、自分の思い通りにならないと済まないんだろう?


自分の思い通りにならないことを否定ばかりしたり、他人にこう思われたい、他人にどう思われたい、ということまでコントロールしようと強烈な欲望でこの世界を呪い始めているんじゃないか。

だから、俺は前のブログからずっと言っているんだ。

お前が長期のひきこもりで不幸ばかりが続いているなら、それはお前の自業自得だ、ということだ。

メディテーションを生活に加える

俺が長期のひきこもりから抜け出して人と交流できるまで回復できたきっかけは、上に書いたみたいな仏教の基本的な考え方を学んで、自分が欲深い人間であることを学んだことが最初のステップだった。

そしてその後、俺は自己啓発書や仏教書を読み始めて、メディテーション(瞑想)やヨガを実践するようになった。
誤解されたくないからハッキリ言っておくが、俺は宗教家ではないし、今でもまったくの無宗教だ。
仏教は、ただの生きる知恵で、哲学だと思って勉強してきた。

そしてこのメディテーションでは、自分を無にすること、自分の執着を捨て、欲望を捨て、自己を肯定したい=という気持ちも捨てて、無になることを目指す修行だ。

基本的には打禅をするみたいに、あぐらを書いて足の裏を天に向けて、好きな姿勢で、自分の息遣いにだけ注意を集中する。
雑念が出てきたら、そいつらこそが我執=執着の穢れだ。つまりは俺の欲望であり、俺を苦しめてきた亡霊たちさ。その亡霊が、自分自身なんだ。

そういった意味で、メディテーションというやつは自分の中に自分を映す鏡をもつこと、ただそれだけだと思う。

1日5分間でいい、このメディテーションをしながら、自分のとらわれがない、今、生きている自分、ここにいる自分を無にするトレーニングをしてみてほしい。

ただし、メディテーションがいいから、とすすめられたから、と思ってそれをやったり、ただ自分を無にするだけではダメだ。

自分を無にしようとしている自分の動機、メディテーションをする意志をしっかりと自分で確認して、メディテーションの意味を自分なりにしっかり理解するために、やはり仏教の勉強とメディテーションは平行して実施してみてほしい。

最初は、俺は自分を無にすることなんて、できなかった。
5分も沈黙して、眼をつぶっていること自体も苦痛だった。

だから、俺がしたことは、本当はいけないことだが、ある想念を思い浮かべることだった。

それは、どういった想念かというと、自分がクルマでひかれたり、病気になって苦しんだり、母親や父親が病気で亡くなったことを想像してみる、ということだ。

こういったことを想像して、何になるかって?

自分が想像するだけでも辛いことや、しんどい不幸を実際に想像してみると、実際の現実はそこまで不幸ではない、ということが実感できるんだ。

今の自分には、大きな痛みもない、いちおう健康だ、家族もいる、ひきこもる部屋もある。

つまりどんな長期ひきこもりも、みんな恵まれているんだ。

其の時点で幸福のはずだ。

そう自覚できれば、ひきこもっているその環境に感謝ができるはずだ。

それができない奴らは、その時点で不遜で傲慢な奴だと思う。

そして、すべては変化していく。

明日は、俺は今の同じようにこの家にいなくてもいい、明日は外出してもいい、同じように明日は母が病気で倒れるかもしれない、明日は地震が起こるかもしれない、明日は父親がコロナウイルスにかかるかもしれない。

いろいろなありうる未来もあるが、とりあえず、今はここに俺が座って、禅をしている。
今は何も起こっていない。そんなことを確認しながらメディテーションをすると、だんだんと自分の気持ちを整理するステップになるんじゃないかと思う。

まとめ

今日はメディテーションの薦めを書かせてもらった。
別に仏陀を崇拝しろとか、そんなことを言いたいわけじゃない。
ただ、参考にはしてみてほしい。

仏陀の言葉に、次のようなものがある。

怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。

『ダンマパダ』(『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫41頁)

この言葉を手がかりに、長期無職ひきこもりの俺たちは、俺たちの執着についてそれぞれ見つめなおしてみたらどうだろうか。

さとなか|わかこく

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