📒(調査研究)メディアとテクノロジー教育|「デジタルユースワーク フィンランドの展望」翻訳紹介⑤Wisa-ARCP

デジタルユースワーク

目次

はじめに

私たちが日々直面している若者支援(ユースワーク)の現場は、急速にデジタル化が進んでいます。スマートフォンを見る日常生活、SNSでの交流、AIやゲームとの関わりなどデジタルデバイスに触れる機会は枚挙に暇はありません。若者の暮らしのなかにテクノロジーは深く組み込まれていますが、日本のユースワークの現場では、「デジタル」と「ユースワーク」がまだ十分に結びついているとは言えません。

そこでWisaが推進しているデジタル・ユースワークの認知と理解の日本社会で拡大するために、調査研究プロジェクト「Wisaアクション・リサーチセンター and パブリケーション」を2025年度より自主事業としてスタートしました。まず初めの活動として、フィンランドの先進的な実践をまとめた『デジタル・ユースワーク ― フィンランドの視点(Verke編)』(DIGITAL YOUTH WORK –a Finnish perspective, Verke, Helsinki 2017)を翻訳・紹介していきます。

フィンランドは、若者の参加と社会的包摂を重視するユースワーク政策において、欧州でも高い評価を得ており、その中でも特に「デジタル技術をどうユースワークに活かすか」という点で、他国に先駆けた取り組みを行ってきました。自治体、教会、NGO、学校、行政、研究機関が一体となり、若者の視点に立った実験的・実践的なユースワークを展開しようとしています。

本書はその成果を理論と実践の両面から紹介した、まさにデジタルユースワークの「教科書」とも言える内容です。

日本でも、不登校、ひきこもり、孤立、情報過多、依存症、多文化共生の課題など、若者の生活とテクノロジーが複雑に絡み合う現実があります。フィンランドの経験は、日本の文脈にそのまま当てはめられるわけではありませんが、「どうすればテクノロジーを若者の成長や参加、安心、安全につなげられるのか」を考えるうえで、多くのヒントを与えてくれます。

この翻訳紹介が、日本におけるデジタル・ユースワークの理論と実践を広げるための一助となり、支援者や教育者、研究者、政策担当者、そして何より若者自身が、より良い未来を共に構想していく手がかりとなることを願っています。

*翻訳紹介する文献は、クリエイティブ・コモンズ:the Creative Commons Attribution 4.0 International (CC BY 4.0) licenseとして翻訳公開ができるものを対象としています。

 

デジタル・ユースワークの定義①はこちら

 

第二部 メディアとテクノロジー教育

メディアとテクノロジー教育に取り組む際に、重要な目標のひとつは、若者がメディアとテクノロジーに関連した色々な物事に関心を持つように促していくことである。ユース・ワークは、社会で活躍するために必要な資源(リソース)を若者に提供することを基本とする。そのようななかでデジタル・スキルは、現代のあらゆる社会集団においてその重要度を増している。というのも若者がいずれ就職したときに、ほとんどのキャリアで誰もがいずれはチャットボットやロボット、その他のあらかじめプログラムされた機能を駆使した仕事をしなければならなくなるからである。若者は、テクノロジーが提供するあらゆる可能性を活用するために、前向きにこれを取り入れていくマインドを持つように意識しなければならない。将来の労働市場で不利な立場にならないためにも、また社会全体の一員であることを実感するためにも、すべての若者がテクノロジー・スキルを学習する平等な機会を確保されなければならないのである。

公的な議論や意見表明などによる社会的な影響が、ソーシャル・メディアで頻繁に見られる時代になった。公の場で議論に参加するためには、文章、写真、ビデオなどのメディアにかかわらず、相手の意見を尊重し、自分の主張をわかりやすく論理的に説明する能力が求められる。また、情報を批判的に読み、その背後にある意図を認識するリテラシーも重要となる。自分でコンテンツを作る経験を積むことは、意外に思われるかもしれないが他のメディアコンテンツに対する批判的な態度を学ぶ足がかりとなであろう。このような理由から、ユースワークは若者がデジタルメディアやテクノロジーを自主的、積極的、創造的に利用するためのリソースを拡大していくことになる。今後10年間でテクノロジーはどんどん、私たちの生活に不可欠となっていくであろう、と多くの若者が展望している(Myllyniemi 2017)。デジタル化は私たちの日常生活に不可欠となり、またその形も多様になりつつあるのだから、私たちはその操作やメカニズムに関する知識を備えておく必要がある。もしテクノロジーがモノやデバイスといった商品に過ぎない、と考えてしまえば、その開発過程に内在するデザインや見分けるべき性能についても意識化できないままとなるであろう。フィンランドでは、そのようなことにならないようにユースワークがテクノロジー教育にもっと積極的に関与して若者を育成していくべきであると考えられている。

第二部 ユースワーク – メディアについて 学ぶための素晴らしい空間

Anu Pöyskö, wienXtra – medienzentrum

過去10年間、若者を「デジタルネイティブ」と一括りにしてしまったが、この概念はメディア教育に関する建設的な議論をしばしば無益なかたちで妨げてきてしまった。本来、「デジタルネイティブ」という概念は、すでにデジタル・メディアが飽和した時代に生まれた世代を指していたに過ぎなかった。しかし、それはいつしか、若者は多かれ少なかれ似たようなデジタルメディアスキルを持つ均質な集団である、といった世間一般の思い込みへと変化して拡がってしまったのである。この思い込みは、若者の多様な支援ニーズを認識する能力をしばしば曇らせてしまう。また、多くの大人たち、いわゆる「デジタル移民」(そのうちの何人かは親であり教育者でもある)は「子どもたちはどうせ自分たちの世代よりもずっと先を行ってしまっている」と思い込むようにもなってしまった。

しかし、実際のところ若者たちのメディア・スキルは、いくつかの要因によって一人一人まったく異なっていたりする。むしろ重要なことは、彼ら一人一人が家庭や学校でどのような支援や配慮を受けているかということである。
デジタル化社会でデジタルスキルやメディアを利活用する能力は、その人の人生における様々な機会や参加の可能性を決定的な影響を与える。したがって、すべての人が平等にメディア・リテラシーとデジタル・スキルを身につけ、さらにそれを発展させる機会を確保することが必須の時代となったことを自覚しなければならない。
また、このときに求められるデジタルスキルは、ただ単にメディアを使いこなし、適切なタイミングで適切なボタンを押せるようになる、といった単純な操作スキルではないことは当然である。メディア技術に関する基本的な構造を理解し、デジタルメディアとその可能性に関する広い知識に加えて、それらを創造的・批判的・責任ある形で活用できる能力が含まれる。

メディアに対する深い理解は、メディアが私たちの日常生活にどうしようもなく「外から降りかかってくる」ようなやむを得ない流行現象ではなく、主体的に私たち自身が作りだし、形づくっていくものであることを理解し、未来のメディア環境をどうしたいかという展望について積極的な意見をもって対話に参加することが大切となっている。

メディア教育におけるユースワークの資産 

絶えず変化するメディア環境で必要となる知識やスキルの学習は、家族、仲間、教育機関、キャリアを通して複数の人が関与すべきものであると同時に、おそらく生まれてから死ぬまですべての年代が何らかの関わりを持たざるを得ないプロセスとなりつつある。家族や学校といった主要な社会機関と比べると、ユースワークの役割はまだまだ補完的かもしれない。しかし、フォーマルで公的な領域とは異なる、ユースワークの固有の特徴こそが、このメディア教育に果たす我々の強みなのである。

メディア教育において最も基本的で、かつおそらく最も重要な手法は対話である。私たちは日常的に、メディアの世界―その論争的でしばしば混乱を招く表現や、日常生活に与える影響を理解しようと、語り合っている。若者は多くのことを自分たちで処理してしまうが、大人との対話も求めてもいる。ただし、誰をその相手として認めるかについては特有の選り好みをする。信頼関係こそが重要であることに違いないが、大人には少なくともデジタルライフに関する基本的な理解が求められるのはこのためである。

周知のように、ユースワークは若者が自発的に参加する社会的な場を作り出すことである。この自発性は、すべての若者がかならずしももっている素質ではない。しかし一方で、ユースワークが「第三の空間」として機能することで、若者と大人の間に多様な関係性を築くことができる。これによりユースワーカーは、より柔軟に若者の興味ややりたいことに寄り添ったアプローチを実施することが可能になる。

ユースワークがこの潜在力を活かすことさえできれば、メディアとテクノロジーを学ぶための豊かな環境を創り出すことが如何に重要であるか、納得していただけるかと思う。

メディアを理解する-世界、社会、自己を理解する

アクティブ・シチズンシップ*の重要な要素は、以前と同様、デジタル社会で巻き起こっている時事問題に常に関心を持ち、情報を適切に取得してそれに基づいた自分自身の意見を形成することである。この過程は、ますます複雑で難しいものとなっている。今日の政治的言説のテーマは膨大でしかもグローバルとなり、複雑に入り組んでいる。同時に、若者の情報環境はますます断片化している。それ以前の世代は、テレビのニュースや好きな新聞など、「世界を説明してくれる」であろう、いくつかのマスメディアに信頼を置くことができた。しかし、今日の若者のソーシャルメディア・ストリームには、出所もどこなのかわからない質の異なる海千山千のメッセージが混在するようになった。

*アクティブ・シチズンシップとは、市民が受動的に権利を享受するのではなく、政治・社会・地域に積極的に関与し、公共的課題の解決や民主的意思決定に参加する態度・行為を指す概念である。特にEU政策文書や市民教育研究において、社会的包摂や民主主義の強化と結び付けて論じられている。Hoskins, B., & Mascherini, M. (2009). Measuring Active Citizenship through the Development of a Composite Indicator. Social Indicators Research, 90(3), 459–488.

ニュースメディアのほかにも様々な影響力を持つ組織やグループからのわかりやすいメッセ―ジもあれば、逆に隠された意図のあるメッセージ、商業的な広告、ジョーク、フェイクニュースなど……「いったい誰が真実を語っているのか?誰を信用すればいいのか」と若者たちが混乱しても仕方がないようなくらい情報が溢れかえっている。

若者はそのようなインターネットの世界を、自分たちの生活を営むうえで不可欠な情報源としているわけである。インターネットは信用できない、などと教えられて若者の側もそれを頭ではわかっているにもかかわらず結局は大量の情報のなかで混乱してしまう。ここに、デジタル・ユースワークが直面するジレンマがある。そもそも、インターネットを信頼するかどうかを問うことは、「紙のメディア」を信頼するかどうか、という問いと本質的に同じなのかもしれない。テレビや新聞、書籍を含めて様々なメディアに対して異なるアプローチが必要かもしれないが、メディア・リテラシーの基本的な分析、つまり、誰が 誰にどのような意図で何を言っているのか、ということを批判的に分析する重要性は共通しているのである。

私たちが情報を検索し、取捨選択する基準については、実際のところあまり知的に考えこんでいるわけではな場合がほとんどではないだろうか。私たちは自分の既存の見解 や信念に合う情報ほどどんどんと取り入れ、逆に自分の考え方とは異なる、あるいは自分の立場に疑問を投げかけるようなメッセージは逆に避けたり受け取らない傾向がある。 このような傾向は、”確証バイアス “(confirmation bias)という言葉で呼ばれている。多くのオンライン・プラットフォームのアルゴリズムは、私たちが昨日に嬉々として検索した情報に似たコンテンツを次々と提供することで、もともと私たちがもっている確証バイアスをどんどんと強めてしまう*。こうして私たちは同じような考えばかりをどんどんシェアしたり、その考えにあったコンテンツをシェアする。このような行動現象はエコーチェンバー(共鳴室)と呼ばれ、実際に意識してみると私たちはまさしく自分が聞きたい声だけが響き続ける共鳴質の中にいることに気づく**。過激な思想に傾倒したり、摂食障がいのような個人的に深刻な問題に陥ったりしている若者にとっては、特にこの影響はさらに深刻なものとなりうる***。

メディア・リテラシーのカリキュラムでは、メディア・テキストを分析することを体系的に学ぶことができるので、学校教育で採用に適している。繰り返すが、ユースワークの特長でもあるメディア教育の最も有効な手段は対話である。メディアに関連したトピックについて話し合いを若者たちは自発的に自由に行うことができる。強く疑問に思ってきたことを自発的に考えることはそれなりの挑戦になるが、若者は次第に自分の知識がまだまだ足りていないことを実感する。このような対話には信頼関係も必要であり、話す必要性が生じていることがらを聞いて、そのトピックが何らか若者からのシグナルでもあると認識することがユースワーカーにとって重要である。たいていの場合、若者がしたい議論を無視してしまい、結果として一方的に教え諭す大人になってしまいがちであるが、新しい大人の視点を加えることで若者とともに良質な問いをともに生み出すことこそ、対話を通して取り組むことができる課題なのである。

*確証バイアス(confirmation bias)は、人間が自らの信念や仮説を支持する情報を選択的に収集・評価し、反証的情報を軽視する傾向を指す。初めてこの概念を体系的に提示したのは心理学者P.C.ワソン(Peter C. Wason)であり、1960年の実験報告「On the failure to eliminate hypotheses in a conceptual task」(Quarterly Journal of Experimental Psychology 12巻, pp.129–140)においてである。 なお、著者がここで述べているバイアスの累積傾向は、今日ではFilter Bubble(フィルター・バブル)と呼ばれている。フィルター・バブルとはインターネットから我々が得ている情報が、自分と同じ意見や趣味のものばかりとなってしまい、異なる意見や事実が見えなくなる現象のことを、個人が泡に包まれた状態であるアナロジーからイーライ・パリサーがその著書のタイトルとして欧米では有名になった(邦訳、『閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義』(早川書房、2012)、原著 Pariser, Eli. The Filter Bubble: What the Internet Is Hiding from You, Penguin Press (New York, May 2011))

**エコ ーチェンバー(共鳴室)の概念は、Cass R. Sunstein によって2001年に出版された書籍『Republic.com』において、インターネットがユーザーを意見の合うような情報環境に閉じ込め、多様な視点との接触を遮断する現象として初めて提起された。

***Wollebæk, D., Karlsen, R., Steen-Johnsen, K., & Enjolras, B. (2019). Anger, fear, and echo chambers: the emotional basis for online behavior. Social Media + Society, 5(2), 1 では、“エコーチェンバー”内の感情的反応(怒りや恐れ)がオンライン行動をどんどん刺激し極端な意見の共鳴を加速することを論じ、ソーシャルメディアにおける確証バイアスとエコーチェンバー強化のメカニズムに光を当てた研究として有名である。

 

メディアを使った創造的な自己表現の支援 

 若者がメディア制作に積極的に関わることで、メディア・コミュニケーションの機能についての理解と学習が効果的に深まることは以前からメディア教育の領域で指摘されてきた。つまりメディア制作 には、たとえば撮影した映像のどのアングルを選ぶか、何を視聴者に見せるか、逆に何をカットして省くか、という小さいが数の多い意思決定の連鎖があり、その一 つひとつが制作された映像に影響をもたらす。自分のメディア作品を他人に見せて、そのフィードバックを得ることは、たとえ作者が自分の意図を完全に実現したつもりであったとしても、その成果であるストーリーがさまざまな方法で理解されうることを力強く示してくれる。 

前述した「デジタル・ネイティブ」という概念に加えて、ここ数年のメディア教育で流行している概念に「プロシューマー」(prosumer)*というものがある。この概念によってデジタル・メディアの積極的な消費者=生産者という、もうひとつの神話的な姿が若者につきまとうようになった。オンラインベースの出版が簡単で安価にできるようになった今日、メディア消費者とメディア生産者の境界はいつのまにかほとんど無くなってきており、消費と生産は融合してひとつになる、という考え方がこの「プロシューマー」の意味が捉えようとしている。

*もともとトフラーが『第三の波』(1980)で提示した未来社会像の中核概念であり、近年はデジタル参加型文化やWeb2.0研究において、共同生産やユーザー生成コンテンツと関連づけて議論されている。Toffler, A. (1980). The Third Wave. New York: William Morrow.

このような考え方はある程度、正しく事態を捉えているであろう。ほとんどの若者は、少なくとも1つ以上のソーシャルメディア・プラッ
トフォームで活動しているが、これは多くの場合、より多くの聴衆を対象としたコミュニケーションの手段というよりは、私的な言説の拡張領域とみなすことができる。もう少し複雑なデジタル自己表現に目を向けると、また違った姿が見えてくる。私たちのほとんどが、ハンドバッグやバックポケットに強力なマルチメディア制作ツールを常に携帯しているにもかかわらず(もちろん、私が言ってい
るのはいつでもどこにでも持ち運べる、オムニ・プレゼント(Omni-present)なスマートフォンのことである)、自動的にその可能性をフルに活用しているわけではない。ほとんどすべての子供たちがYouTubeでビデオを見ているが、アクティブなチャンネルを運営し、定期的に自分たちでビデオをクリエイティブに制作しているわけではないであろう。この点、ユースワークにおけるメディア・ワークショップやプロジェクトに対するニーズと需要が多いこととも関連している。ワークショップやプロジェクトは、最初は積極的なメディア制作への興味を効果的に喚起し、後には自分の興味を深めるための創造的な場となり、同じような興味を持つ他の若者と出会う機会を作ることができる。

メディア制作がユースワークの枠組みの中で行われる場合、メディア制作者としての新しい役割に伴う疑問に若者が対処できるようサポートする機会も生まれてくるであろう。例えば、YouTubeのために制作を始める子供たちの活動を想定してもらいたい。それには否定的なコメントにどのように対処していくか、一夜にして有名になれるわけではないので如何に自分の作った作品を多くの人に見てもらうか、という事実を受け入れていく機会が生まれてくるのである。
メディア制作は、よく言えば、多くの社会的学習が行われる複雑で時に厳しい仲間との協力関係も求められてくる。このようなプロセスにおけるユースワークの専門家の役割は、多くの場合ファシリテーターであり、学びのプロセスを計画し、枠組みを作り、グループのルールを交渉し、欠点に対処し、成功を祝う手助けをすることである。

若者の発言支援

とりわけメディア教育は、若者の声を社会に届けることを目的としてきた。若者たちは、自分たちのメディア作品を通じて、自分たちの生活世界の真の専門家として発言する機会を得る。若者にとって、自分たちの声を届けるという経験は、本当の意味で力になり、さらなる社会参加を促すきっかけとなる。地域社会としても、若い世代が発言する機会を得ることや、実際にその声を聞いてもらう地域づくりは大切なことであろう。
一方で、伝統的に私たちの政治システムは、そのほとんどが文字を通してコミュニケーションをとってきた。しかし若者たちは、自分の考えを表現するのに、他の、より視覚的な形を好むことが多い。ユースワークの専門家は、伝統的なパターンに当てはまらないメッセージへの理解を拡大し、それに対する社会の側からの応答が安全にされるような、コミュニケーション・プロセスを調整することも期待されている。
メディア教育がデジタル化される以前の時代には、若者のメディア制作を発信する場を探し、発表のチャンスを作ったりすることは大きな課題だった。今日、ネット上での出版の可能性は身近に拡大している。だからこそ、私たちは何も考えずに出版すべきではない。制作過程に関わったすべての人が、その出版に同意しているだろうか、その他、使用する素材に関するすべての権利を私たちは有しているのか、他に考慮すべきことはないか、また発信していくのであればどのメディアのチャンネルが最も適切か…フィードバック、コメント、ディスカッションがやってきたときにこれらをどう扱うか、などこういった一つ一つの判断には、ユースワークにおけるメディア・プロジェクトで若者が対処することを学びの材料が隠れているのである。

アイデンティティ実験のための安全な空間を作る

成長のさまざまな段階で若者が取り組む課題は、”発達課題 “と呼ぶことができる。青少年の場合、中心的な発達課題のひとつは、首尾一貫したアイデンティティを形成することである。このアイデンティティの作業は決して孤独なものではなく、常に何らかの社会的枠組みを必要とする。若者は自己形成において、特に仲間からのフィードバックを必要としている。今日、このプロセスの大部分は、さまざまなソーシャルメディア上で行われるようになった。
新しい自己表現のデジタル化がどんどん日常的となると、家族や学校教員のような教育者たちは、ネット上であまりにも惜しげもなく自分をさらけ出し、プライベートで個人的な情報を提供しすぎる子供たちを心配し始めた。それをしり目に、ここ数年、起こりうる(否定的な)事件に対する若者の意識は急速に高まっているようで、彼らはオンライン上に存在するリスクに対処するためのさまざまな戦略を編み出している。意図的にオンライン上の自分をアート化してデザインしアピールする人もいれば、あえて小さなグループに閉じこもることを選択する若者もいる。その一方で、さまざまなコミュニティで異なるアイデンティティを使い分けている人もいる。

いずれにしても、自己主張と自己防衛の適切なバランスを見出すのは難しい課題だ。オンライン・コミュニティに参加する「正しい」方法は単純化することができない。むしろ私たちは皆、自分の参加の仕方について、意識的かつ反省な決断を下せるようになることを目指すべきである。ユースワーカーは、若者がオンライン上で自分自身を表現する方法についてあえて考えるよう促すべきである。理想的には、これには若者が現在メディアで出会っているロールモデルについて話すことがよいきっかけとなる。ロールモデルは、若者が経験している
アイデンティティ・ワークに肯定的な影響(インスピレーションやアドバイスなど)を与えることもあれば、否定的な影響(非現実的な美意識など)を与えることもある。

ユース・ワークのもうひとつの(そして私の考えでは、ますます重要性を増している)活動分野は、対面式のグループ状況において創造的なアイデンティティ形成を行うための安心できるスペースを提供することである。積極的なメディア制作-それがビデオであれ、写真であ
れ、ミックスメディアであれ、そういったクリエイションはイメージ、役割、アイデンティティを培いながらレクリエーションできる幅広い方法と可能性を提供する。ユースワーカーの仕事は、若者が制作した作品へのフィードバックが建設的であり続けること、誰もが自分のイメージをしっかりもち、コントロールできるようにすることである。このような安全な枠組みができれば、若者の側も思い切った実験や挑戦がしやすくなり、自分の新たな一面を発見しやすくもなり、みんなで笑いあったり、自由で安らかな気持ちになっていくことができる。このような安心できる環境創りが、若者のネット上での自己表現の経験について話し始める最適な条件でもある。

 

自己責任でメディアを利用することを学ぶ

小さな子どものメディア利用は、最初は親によって形成される(少なくともそうあるべき)リテラシーに依拠している。そして10代の成長期になると、親の指導責任から徐々に自己責任へと焦点が移っていく。若者が意識的に自分のメディア利用を振り返り方を学べば学ぶほど、日常生活にメディアをどのように取り入れるかについて、自己責任で決定することができるようになる。このような反省的な自己評価によって、若者は何かが 「しっくりこない」と感じたとき、意識的に自分自身の行動を変更することもできるようになる。ほとんどの場合、私たちが取り組んでいるこの事例は、時間管理の問題である。繰り返しになるが、メディアについて、そして日常生活でメディアをどのように使うかについて話し合うことは教育効果をもたらし、ユースワークはそうした話し合いのための素晴らしい場創りであることができる。
若者のメディア嗜好や習慣について大人のグループと議論し始めると、私たちはしばしば自分たちのメディアに残された足跡を検索して見せ合ったりして、それをきっかけに自分の成長とその時の個人的なお気に入りを思いだして語り合う。現代の若者のメディアの世界はまったく違って見えるかもしれないが、メディア利用の根底にある動機はそのようなメディアの楽しみ方と驚くほど似ていることがある。好きな曲を真似して歌ったり、ヘアブラシをマイク代わりに使ったり、スターになった自分を想像したり。今日Musical.ly*で起きていることは、ティーンエイジャーが何世代にもわたって行ってきたことだ。音楽に限らずとも何かのファンであることで私たちは他者とつながり、より大きなコミュニティの一員であると感じることができる。違うのは、今日それがロックグループではなくユーチューバーかもしれない、という程度のことなのかもしれない。趣味や関心を同じくする仲間の重要性が増すにつれて、彼らと連絡を取り合う手段も多様化してきたのである。かつての電話には限られた可能性しかなかったが、今日のスマートフォンは何倍もの可能性と選択肢を提供できる。若者たちのスマートフォンやメディア利用の背後にある彼ら彼女らの無垢な動機を理解しようとすることは、その世界を共感的に、ある種の敬意をもって見ることなのである。メディアの嗜好は、その人自身の一部であり、デジタルのリスクや脅威といった問題について議論する際にこそそのようなことも心に留めておくことが重要である。

*Musical.ly(ミュージカリー)は、2014年に登場した短尺動画共有アプリで、ユーザーが音楽に合わせてリップシンク(口パク)やダンス動画を撮影・編集・投稿できるプラットフォームである。若者の創造的表現の場として世界的に人気を博し、2018年以降に誕生したTikTokの前身であった。

大人である私たちは、若者のメディア世界に対して偏見を持つことが多い。若者はそれを察知し、メディアの問題に関する会話を完全に避けるようになる。若者たちは大人の不安や干渉を察知し、メディアの問題に関する対話を完全に避けるようになる。このような拒絶は、双方にとって大きな損失である。
全体として、ユースワークにおける効果的なメディア教育は、何よりもまず以上のような考え方の問題である。ユースワーカーとして、私たちはデジタルメディアの専門家になる必要はない。常にオープンマインドで、好奇心をもって、新しい形態のメディアを積極的に試してみたり、若者の意見に耳を傾けて、常に議論を受け入れる姿勢があれば十分なのである。

次回へ続きます。

 

訳注について

本書は、フィンランドのデジタル・ユースワークに関する報告書『Digital Youth Work – A Finnish Perspective』の内容をもとに、日本の読者向けに翻訳・紹介したものです。原文は主にヨーロッパ、特にフィンランド国内のユースワーク関係者を対象としており、読者層を限定した地理的・制度的背景の記述や実務的な案内が多数含まれているため、日本の文脈では理解が難しい箇所や冗長と判断される情報については、その意味や意図を改変しない程度に適宜省略・簡略化を行う予定です。また、日本語としての可読性や論理的な流れを高めるために、段落構成の再編や語順の調整を行っている箇所もあります。

また本文内の*は訳者脚注で、日本人の読者向けにわかりづらい用語や日本で普及していない概念・専門用語について独自に調査して解説しています。

このような編集意図にご理解いただきつつ、日本におけるデジタル・ユースワークの実践と議論の促進に向けた一助としてお読みいただければ幸いです。

share